福岡高等裁判所 昭和30年(う)1928号 判決 1958年6月09日
本籍 大分県大野郡大野町大字杉園四百七十六番地
住居 福岡市船津町四十二番地
農業
後藤秀生
大正十五年十月二十三日生
本籍 同県速見郡日出町
住居 前記秀生の住居と同所同番地
僧侶 坂本久夫
昭和三年一月十日生
本籍 同県直入郡荻町大字柏原千五百五十七番地
住居 前記秀生の住居と同所同番地
職業不詳
阿部定光
昭和二年一月十二日生
本籍 同県大分郡大南町大字上判田五千二百四十六番地
住居 前記秀生の住居と同所同番地
農業
後藤守
昭和三年六月十二日生
本籍 福岡県田川郡香春町千三百五十七番地
住居 大分県竹田市大字下志土知千二百八番地
無職
藤井満
昭和八年七月八日生
右後藤秀生に対する殺人未遂、建造物損壊、爆発物取締罰則違反、窃盗、脅迫、右坂本久夫に対する殺人未遂、建造物損壊、爆発物取締罰則違反、右阿部定光に対する爆発物取締罰則違反、窃盗、右後藤守に対する爆発物取締罰則違反、窃盗、銃砲刀剣類所持取締令違反、右藤井満に対する窃盗、脅迫、傷害各被告事件に付、昭和三十年七月二日大分地方裁判所で言渡した判決中有罪部分に対し、原審弁護人清源敏孝(藤井以外の被告人つき)及右藤井満から夫々適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は次の通り判決する。
主文
原判決を破棄する。
被告人後藤秀生を懲役三年に処する。
原審の脅迫被告事件の勾留状による未決勾留日数中法定通算の日数を加算して右刑期に満つる日数を右刑に算入する。
被告人後藤守を罰金三千円に処する。
右罰金を完納できないときは、金二百五十円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審の銃砲刀剣類等所持取締令違反被告事件の勾留状による未決勾留日数中十二日を一日金二百五十円の割合を以て、右本刑に算入する。
被告人藤井満を懲役六月に処する。
但本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
本件公訴中
被告人後藤秀生に対する爆発物取締罰則違反(原判決第七に該当のもの)、建造物損壊及び窃盗の点
被告人後藤守に対する爆発物取締罰則違反及び窃盗の点
被告人藤井満に対する窃盗の点
は何れも無罪。
被告人坂本久夫、同阿部定光は何れも無罪。
理由
本件控訴の趣意は
一、昭和三十年十二月十五日附、弁護人清源敏孝外七名作成名義の全被告人に関するもの。(記録七冊目三五五丁以下)
二、同年同月二十一日附、弁護人木下万一作成名義の被告人坂本を除く外全被告人に関するもの。(同七冊目九〇丁以下)
三、同年同月二十三日附、弁護人諸富伴造作成名義の全被告人に関するもの。(同七冊目一六八丁以下)
四、同日附、弁護人岡林辰雄外十九名作成名義の全被告人に関するもの。(同七冊目三七五丁以下、内一部訂正、同四四六丁に記載の通り)
五、同年同月二十四日附、弁護人諫山博作成名義の全被告人に関するもの。(同七冊目一八三丁以下)
六、同日附、弁護人今長高雄作成名義の被告人藤井を除く外、全被告人に関するもの。(同七冊目三七二丁以下)
七、同年同月十九日附、被告人阿部定光作成名義(同七冊目七九丁以下)
八、同年同月二十日附、被告人後藤守作成名義(同七冊目九八丁以下)
九、同年同月二十二日附、被告人坂本久夫作成名義(同七冊目一〇九丁以下)
十、同年同月二十三日附、被告人後藤秀生作成名義(同七冊目二四四丁以下)
右各控訴趣意書に記載の通り。
検察官の答弁は、検察官安田道直作成名義の答弁書(同七冊目四五二丁以下)に記載の通りであるから、何れもここにこれを引用する。
甲の部
第一、判決第七の事実(菅生村巡査駐在所爆破事件。被告人後藤秀生、同坂本久夫)に付いて。
弁護人等の事実誤認の論旨に付いて。
昭和二十七年六月二日午前零時過頃、当時の国家地方警察大分県竹田地区警察署菅生村巡査駐在所(現竹田警察署菅生巡査駐在所)の事務室内で、爆発物が爆発し事務室の床板の一部、同室内の建具の一部、椅子等が損壊したと云う事件が発生した。被告人後藤秀生、坂本久夫の両名は右事件に付、殺人未遂、爆発物取締罰則違反、建造物損壊の各罪名の下に起訴されたが、原審は後に検討する証拠、その他原判決に挙示してある証拠を綜合して、殺人未遂の点を除きその余の罪に付、有罪の認定をした。
そこで先づ、原判決でも証拠として採用している検事鎌田亘の実況見分書と当審が昭和三十二年十一月二十一日行つた検証の証書とに基き、右駐在所及びその附近の事件当時の概況を述べると次の通りである。即ち、右駐在所は竹田市から西方熊本県阿蘇郡宮地町方面に通ずる県道を約十二キロ登つた高原にある下菅生部落の中にあつて、県道(幅員約七米)の北側に南面して建てられた間口約五間奥行約四間半の瓦葺平家で、事務室と駐在巡査の住居からなり、その境は単に襖と壁で仕切られているに過ぎない。事件当時、周囲は正門入口のところを除いて、高い杉の生垣で囲繞されていた。事務室は正門突当りにある二米八八糎四方の板張の部屋で、右床板の高さは地上六五糎である。(表側)南面には、その東側に硝子六枚入りの障子二枚をはめた腰高引違いの硝子窓(施錠は捻込鍵)西側室内に向つて回転する幅約一米の回転式腰高硝子戸(硝子四枚入)とが隣り合つて設けられているが、事件当時回転戸の硝子は偶々全部破損していた為、これに代え広告用紙が張られていた。当審の検証当時は、内側から煽止式施錠がしてあつたが事件当時も同様であつたか否かは、必ずしも明確ではない。硝子窓の前面には屋根と柱とだけで、床も周壁もない玄関があつて、その軒先には事件直前まで裸の電球(四〇ワツト)が取り付けられていたと云うことである。以上述べた事務室の構造上、爆発物が外部から投げこまれたものとすれば、硝子窓の硝子を通過させるか回転戸に張られた広告用紙を通過させるかして、投げ込むより外に方法はないと思われる。
本件において、次に明確な事実は爆発前から警察において、事件の発生を予知していて、多数の警官を派遣し、駐在所附近に張り込ませていたこと。被告人後藤秀生、坂本久夫の両名が爆発の瞬間、前記県道上駐在所から程遠からぬ地点(その地点に付いての争は暫く措く)にいたこと。両名が張り込み中の警官の追跡(どの地点から追跡を受けたかの争についても暫く措く)を受けて逃走し、坂本は県道脇の小溝の中で、後藤は県道近くの畑中で夫々逮捕されたことの三点である。(当審証人小林末喜、同戸高公徳の供述、被告人後藤秀生、坂本久夫の控訴趣意書の各一部参照)
そこで、原判決が採用した証拠のうち、有力と見做されるものから遂次、検討してみることにする。
一、小林幸夫の原審の証言。
小林は竹田地区警察署の警察官で、上司の命により、被告人等逮捕のため、当夜派遣された警察官のうちの一人で、同夜十時半頃から、駐在所正門東寄り斜前約三十米の距離にある菅生村農協倉庫の入口石段のところに張り込んでいたものであり、同所から駐在所前方県道上及び玄関口は、途中に何等視野を遮るものなく、見通しの良く利くところである。同証人の証言の内容は、概略
「夜中の十二時半頃、熊本県の方(註西方)から道路を下の方(註東方)に下つて来る二人の人影を私のところから三十米位の辺で認めた。二人は駐在所の前まで来て、そこで停止したが私はなにか駐在所にでも用事があつて来たものだろうと思つて、知らぬ顔をしていた。すると、そのうちの一人が駐在所前の点いていた電燈に手をやつて明りを消した。その瞬間、私はアラツと思つて、その両名の行動を見ていたところ、今度は駐在所に向つて左側の入口のところ(註。原審検証調書中の同人の指示説明によると、附属第二見取図の(ロ)点に該当し、県道上駐在所正門前の溝板西端から三米、駐在所前小溝の南側から〇・五米の地点)で一人が燐寸をすつて、シユウと言うものに点火し、それを駐在所の中に投げ込んだ。それと同時にガチヤンと言うような大音響がして、そこから一人の人が熊本県の方即ち二人が来た道の方に向つて逃げ出した。それで私はすばやく同人の後を追い、同人が杉垣のところ(註。原審検証調書附属第二見取図の(ハ)点で、駐在所前から七十米の県道脇の地点)から小道を入つて四十米位入つたところの菜畑の中にひそんでいるところを懐中電燈の明りで探し出し逮捕した。その時の人が此処にいる被告人後藤である。私が被告人後藤を逮捕した時、二、三人の警察官が同所に来たのでその人達に後藤を預け、私は駐在所前の燐寸をすつた現場に引き返した。燐寸のすり残りの軸と煙草の吸い残りのようなものが一つそこに落ちていた。最初、二人が熊本県の方から下つて来るとき、そのうちの一人が、煙草を吸つているのを見た。煙草を捨てた方が先きで、それから燐寸をすつた。駐在所の軒燈で、県道の熊本県寄りの方は、駐在所から約十米先まで見える。二人の服装は、当時憶えていたが今日記憶していない。」と云うのである。
なお、当時小林と共に駐在所前の菅生村共済組合附近(註。駐在所正門までの距離約三十二米見通しの利く地点)に張り込み前顕両名の行動を目撃していたと云う当時竹田地区警察警備係長であつた岡本鶴一に対する原審の証人尋問調書も存在するが、この証言は原判決では証拠として採用していないし、目撃に関する証言の内容も小林証言と大同小異であるから同人の証言の引用やこれに対する論評はすべて省略する。よつて、小林証言の信用性を検討してみると、
(1)証人は小雨の中を約二時間も駐在所前に張り込み、犯人の来るのを待ち受けていたにも拘らず、怪しげな二人の人影が駐在所前に立ち止り、内一名が駐在所の正門構内に立ち入り、軒燈を消しても、なお唯単にアラツと思つただけで、不審尋問の挙にも出ず、さらに、駐在所前県道上で燐寸をすつて、シユウと云うものに点火し、これを駐在所に投げ込むまで何等の措置もとらず傍観していたと云うのであつて、張り込み中の警察官の態度としては納得し兼ねる節がある。
(2)当時は、駐在所附近に重大事件の発生することを推知して毎日新聞記者三原嘉一郎、中路和也、和田武治、カメラマン早川弘の四名が細雨の中を約一時間、駐在所近くに潜んで待機していたのであるが、事件勃発当時の張り込み地点は、キヤツプ三原嘉一郎は岡本鶴一の近く、和田武治、早川弘は県道南側のこれに添う雑草地内で駐在所正門から凡そ四十米足らず西南に当ると思われる地点であつて、小林証人が二人の人が立ちどまり燐寸をすつたと云う地点及駐在所正門入口辺は何れも見通しが利く地点である。(註。中路記者は途中移動したものか当時の張り込み地点を確認し得ないが、一審の判然しない駐在所の西方二、三十米行つた道路の右側で道路から五米位離れ雨宿りができるような木立のあるところにいたとの供述と、同人の当審第一回検証における指示とによると、渡辺義人等の居つた近くの地点と思われる。)そのうち三原、早川の両名は当時偶々後向きになつて放尿中で、何も見ていないと云うのであるが、和田武治は原審及び当審で「どちらから来たか判らないが、私が始めて見かけたのは、駐在所の西側の方であるが、一人の男が現われて、駐在所の正門を入つていつた。続いて、駐在所の軒燈が消えた。間もなくドカンと云う爆発音がしたので、驚いて県道上に飛び出した。そして駐在所の方へ走つて行つた。」と云う点で一致した証言をし、なお原審では「軒燈が消えたのを見て、自分としては駐在巡査が帰つて来て消したのだと思つた。」趣旨、当審では爆発音がしたとき駐在所の方から走つて来る人を見なかつたかとの問に対し「記憶にありません」と答え、又正門内に入つた男の服装を問われて「外被らしいものを着て頭には何にか頭巾を被つていたと思う、しかしよく見えた訳ではないので判然とは判らない。」と述べている。中路和也は当審で「大体私が居つた前の道路を人が歩いて通れば見える程度の処にいたのだが、別に通行人はなかつたと思う。道路を西から東へ又は東から西へ通つて行くのを見なかつたと思う。」原審で「事件前道路を通る人を見なかつた。音がする前私の隣りにいた人が私の左手をつついた、するとボーンと音がしたので驚いた。」旨の証言をしている。
なお、当審夜間検証の結果によれば、和田記者のいた地点(県道南端から六米五〇)からは、前面県道の中央を通る人の影は見えない。しかし、駐在所の正門を入る人影は、軒燈の光に照らされて明瞭にみえる。そうだとすれば事件直前二名の者が和田の前面道路を通つたと仮定しても、それだけでは或は見えないかも知れないが、それにしても、小林証人の云うように電燈を消した後真暗な県道上で燐寸をすつたとすれば、その男の向き、姿勢の如何を問わず、路上に燐寸の火による光芒を認め得た筈であるし、又小林証言に所謂シユウと云うもの(註。導火線から吹き出す火花を意味するものと思われる)を持つて、路上から駐在所門内に走り込む際、その火花が見えない筈がない。しかるに、和田記者がこれ等の光を見ていないことは原審及び当審の同人の証言に照らして明らかである。又熊本県の方(西)から竹田市の方(東)に向つて歩いて来た二人のうち一人が煙草を吸いながら来て、シユウと云うものに点火する直前路上に棄てたとするならば両名が和田記者の前面道路を通過する際、その光によつて和田記者はその時既に両名の人影位は認めていなければならない筈である。又小林証言の如く、ガチヤンと云うような大音響と共に、一人の男が県道上に飛び出し、熊本県方向に逃走し小林が直ちにその後を追跡したものとすれば同じく大音響と共に県道上に飛び出したと云う和田、早川、中路はその張り込み中の位置から云つて当然県道上において被追跡者(後藤)追跡者(小林)とすれちがうか、又は少くともその姿を認めなければならない筈である。尤も当時県道は混雑したであろうから後藤、小林の姿を認め得なかつたのではないかと想像するものがあるかも知れないが原審の検証における右小林の指示説明(同検証図面参照)によれば「私は逃げる二人を追い、後から逃げる人(註。坂本に該当)を追越し先きに逃げる人(註。後藤に該当)を追つて県道を西進し、(ハ)点(駐在所前の溝板西端から七〇米の地点)から北に曲つて、小道を逃げたので云々」となつているところから見ると小林が二人を追跡した当時は県道上は未だそれ程混雑していたものとは認め難く、混雑はその後生じたものと思われる。
そうだとすれば、小林証言はその内容に不自然なところがあつて、多く信用はできない。
二、原審における(イ)渡辺義人(当時竹田地区警察署警察官)の証言は、事件発生前から駐在所西方約二十数米のところで北方から県道に交わる小道の傍に張り込んでいた事実その附近の県道添いの小溝で坂本を逮捕した事情(註。同証言によれば証人は坂本が駐在所方面から逃走して来たことは確認していない。)並に坂本の所持品等の押収に関するもの。(ロ)山村幸男(当時国家地方警察大分県本部捜査課勤務警察官)の証言は、主として吉田外二名の警察官と駐在所後方三、四十米の畑中に張り込みの事実、後藤逮捕の事情、逮捕の前後に一回照明弾がたかれた事実、の外後藤の所持品その他押収に関するもの(ハ)西野徳太郎(当時国家警察大分県本部刑事部鑑識課勤務)秋月転(当時竹田地区警察署警察官)の証言は、事件当日の朝、駐在所玄関脇で雷管を前庭で不発の導火線付ダイナマイト入ビール瓶(押検第三十五、六号)を拾得した事情等に関するものに過ぎないが、唯々これ等とこれに照応する差押調書や領置調書によつて一応坂本が逮捕された当時同人のポケツトから駐在所軒燈の電球、雷管導火線が、又風呂敷包の中からはダイナマイト、小石等が発見され、駐在所玄関脇に雷管、前庭に不発のダイナマイト入ビール瓶が遺留されていたことになるので、これ等の物件の存在の仕方と被告人等との関係に付いて考えてみる必要がある。
原審における西野徳太郎の証言、同人の昭和二十七年六月二日附国家地方警察大分県警察隊長に対する報告書の記載中冒頭の文言等によれば、事件当時既に鑑識課員が現地に派遣されていたことが推認される。それにも拘らず、電球、ビール瓶、雷管等指紋採取可能の物件に付いて何故指紋顕出の試みさえしなかつたのか、又犯行を容易ならしめるための消燈ならば、電球を捻ねれば足り、敢えてこれをはずしてポケツトに入れるまでの必要はなさそうである。爆発物の作り残りと推定されるダイナマイト、雷管、導火線等犯罪の証明の資料となるべきものを何故身につけて、犯行現場に行つたのであろうか等種々納得し兼ねる節が多く、右物件の存在の仕方に付いては、種々疑問が残る。
原判決が採用した証拠中以上のものを除くと、外に被告人両名が本件爆破の実行者であることを窺うに足るものはないのであるが、なお、ここで当審における山本祐徳外三名の鑑定(以下東大鑑定と略称する)に付いて述べる。同鑑定は鑑定人四名が親しく前記駐在所に赴き、鑑定資料中の物的資料の内襖三本(当庁において数時間を要して詳細に点検)を除く外、本件爆破により破損された床板三枚、木製椅子(破損した部品一脚分)小障子二本(張紙破損)爆発当時事務室内から集めた瓶の破片、小石、砂、小木片の混合したもの等を爆発現場に運び、床板、椅子等を爆発当時の位置に復した上、現地に付二日間に亘り詳細に各種の調査を遂げた上、なお鑑定人中三名は大分県国東町の大戸三郎方に臨み爆発当時事務室の隣室にあつて被爆による傷痕を当時のまま残している同氏所有の箪笥につき詳細な調査をなし、これ等によつて得られた資料、東京その他で行われた実験の結果に基きなされたもので、その鑑定報告書と山本、菅両鑑定人の供述によると主力を爆発時における爆発物の位置の正確な測定に置いたものと思われる。かくて確実な資料と精密な科学的観察に基き、鑑定報告書に記載の如き科学的推理により本件爆発は押検第三十五号「ダイナマイト入りビール瓶」(註。事件当時駐在所庭に放置してあつた不発の爆発物)と同様のダイナマイト入りビール瓶様のもの一個の爆発によるものであつて、この爆発物件は当時駐在所事務室の東北隅に、南向きに置いてあつた押検第二十四号木製椅子の腰掛板上に、同報告書第一一図の姿(註。瓶底を東北瓶口を西南にし、腰掛板上に横臥の姿勢)で爆発したものと鑑定したものであつて、この点が本鑑定の眼目をなしている。そして同報告書の鑑定経過に関する記載と、この点に関する山本、菅両鑑定人の供述とによれば、右の点に関する鑑定の結果は確実なものと思われる。
なお同報告書によつて、爆発当時、事務室の窓硝子の受けた圧力は毎平方糎当り七〇瓦の瞬間圧であること。使用されたダイナマイトの量は四五―五〇瓦と推定されること。前顕不発のダイナマイト入ビール瓶(押検第三五号)に押入されてあつた導火線の長さは約一一糎で、点火後雷管を爆発させるまでには一七―二〇秒を要すること。重量約一、五瓩(註。前示不発のダイナマイト入ビール瓶の重量と同じ)の小石入ビール瓶を成年男子が地上約一、七メートルの高さに持ち、前方約二、八米をねらつて投げると、瓶は約一秒で地上に落ち、そのときの撃速は、毎秒約十米であること等が明らかにされている。
また山本、菅両証言によつて事務室の窓硝子に現に残つている傷痕(鎌田検事の実況見分調書の(イ)点、昭和三十二年十一月二十一日に当審で行つた検証の調書の点、地上一米六二糎。)は外部からの投入物との衝突に因つて生じたものとは認め難く、また室内に起つた爆風に基くものでもなく、これ等とは全く関係のない他の原因によつて、生じたものと推定されること。証人等が行つた投擲実験の中現地と略同条件の設備をなし窓硝子を通過して椅子の腰掛板に乗せる気構えで、ビール瓶を投擲した実験の結果破れずに腰掛板に乗る確率は略二十分の一と推定されることが明らかにされた。最後の点に付いて、検察官は警察庁科学捜査研究所が行つたビール瓶の投擲実験、同研究所が日本硝子株式会社キリンビール株式会社に依頼して行わせた投擲実験の結果を根拠として、椅子の腰掛板に破れずに乗る確率は東大実験の結果よりも遥かに高いと主張するのであるが、当審における岩井三郎の証言によれば、研究所内において本年四月二日に行われた十回の投擲の外は或は椅子と同一平面に立つての実験であつたり、硝子障子の枠内を通すと云う条件を忘れての実験であつたり、その他実験条件が本件の実情に副わないものが多い。従つて右の実験の結果を以て、前記東大における実験の結果を否定することは無理だと思われる。
のみならず、暗黒裡に縦三五糎、横三八、五糎の枠(昭和三十二年十一月二十一日施行された当審の検証の調書附属第二見取図参照)にはめられた窓硝子又は略同様の枠に貼られた回転戸の広告用紙を破つて重量約一、五瓩の既に点火したダイナマイト入ビール瓶様のものを、屋外から二米八八糎四方の室内目がけて無心に(目標なく)投入した場合、その瓶が途中爆発又は破壊することなく、地上六五糎の同室床板上の東北隅に偶々置かれてあつた木製ラツカ塗椅子の腰掛板の上に横臥の状態で、静止すると云うが如きは、稀有の偶然を除外しては、殆んど考えられない。これは吾人の健全なる常識を以て十分判断し得るところであつて前顕の投擲実験の如きも実は、さしたる必要性なきものとすら思われる。次に、事務室の構造からして、回転戸の施錠をあけ、又は破壊して室内に侵入し、爆発物を椅子上に置くことも、絶対不可能ではないかも知れないが、特段の理由、格別の目的がない限り場所が駐在所の事務室であり、且又置かれたところが右入口から最も遠い地点である点にかんがみると、普通一般人たる犯人の行為としてはその必要性も考えられないし、又著しく不自然でもある。
以上論述したところによつて、被告人等が本件犯罪の実行の衝に当つたものであるとの証明は少くともないと云える。唯被告人等には他に共謀による共犯者(例えば戸高公徳等)があつて、その者において実行々為を担当したのではないかとの考方も、考方としてはあり得る。当審としても、この点に審理の一つの重点を置いて慎重に検討したのではあるが、これを認定するに足る確証は遂に発見し得なかつた。これを要するに本件に付いては、被告人等の有罪を肯定するに足る証拠がない。
右に説明したところによつて明らかなように、本論旨は結局理由があり、他の論旨に対する判断をまつまでもなく、原判決中被告人後藤秀生、坂本久夫に関する部分は到底破棄を免れない。
よつて、刑事訴訟法第三百九十七条第一項により、原判決中被告人両名に関する部分を破棄し、同法第四百条但書に則り次の通り自判する。
本件公訴中、被告人後藤秀生、坂本久夫の両名は共謀の上、昭和二十七年六月二日午前一時頃、大分県菅生村大字菅生字下菅生一、一一四ノ二番地国家地方警察大分県竹田地区警察署菅生村巡査駐在所(凡て旧称)前に到り、治安を妨げ且同駐在所の建物を損壊する目的を以つて、砂、小石入りビール瓶にダイナマイト、雷管、導火線等を装填せる爆発物を、右駐在所建物内に投入使用し、因て、その建物の一部、その他建具、椅子等を損壊したものであるとの点は、犯罪の証明がないので刑事訴訟法第三百三十六条後段に則り、無罪の言渡をなすべきものとする。
第二、原判決第六の事実(牛の窃盗事件。被告人後藤秀生、同阿部定光、同後藤守、同藤井満)に付いて。
弁護人等の事実誤認の論旨に付いて。
原審は原判決に掲げてある多数の証拠を綜合して「被告人後藤秀生、後藤守、阿部定光、藤井満等は共謀の上、昭和二十七年一月二十七日頃、菅生村大字今六百八十一番地の一、佐藤卓夫方で、同人所有保管の牝牛(牡牛とあるは牝牛の誤記と認める)一頭を窃取した」という事実を認定した。
弁護人等の前示論旨は多岐に分かれているが、概略
(1)本件の牛が判示の日時に盗難に罹つた証明を欠く。仮に盗難に遭つたとしても、被告人等がしたという共謀の内容、犯罪実行の方法に付いて何等の証明もない。
(2)証人後藤澄吉、坂梨義丸の供述調書は任意性を欠く。
(3)牛骨、牛皮、角等が被告人後藤秀生の畑や、便所から出たとしても、それは裁判所を欺き、令状の交付を受け、被告人等を検挙するため、官憲によつて故意に作為されたものであつて、被告人等の関知するところではない。
の三点に大別される。
よつて按ずるに、
被害者佐藤卓夫の昭和二十七年十月二十九日附、原審の証人尋問調書(一部)並に原審検証における指示説明によれば、昭和二十七年一月二十八日の午前二、三時から同六時半までの間で、特にまだ霜柱の立つ時刻であつたから、恐らく夜明までに二、三時間あると思われる時刻に佐藤方の廐舎につないであつた牝牛一頭が少くとも三人位の者によつて盗み出されたこと。同証言及び同日附原審の松井正道、松井末彦、松井二一、松井泉に対する証人尋問調書並に同月二十八日原審が施行した検証の調書によれば一月二十八日の朝、佐藤方廐舎前から後藤秀生方の北方約八十米の地点(同検証調書附属第一見取図点)まで牛の足跡が続いていたが、それから先は草原で足跡が発見できなかつたこと。前記佐藤の尋問調書の一部、同検証調書と原審第四回公判(昭和二十八年二月四日)における証人板井悟、同小林幸夫の供述記載、板井悟名義の鑑定書中一部記載によれば、後藤方住家の東方約百二十七歩、北方約九十五歩の草原中の地点(後藤秀生の父彦馬所有の開墾地で住家と地続、同附属見取図点)の地下から、右佐藤の盗まれた牛で、斧で撲殺されたと思われる牛の屍体のうち古俵に包んで四肢、内臓、筋肉を除いた部分の右角附頭骨、頸、背、臀及び肋部の骨と皮並に盗難当時その牛に付けてあつた鼻環、手綱等が発見され、又同年六月中旬、後藤方宅地入口の野天便所の中から、該牛の左角と思われる角一本が当時同家に捜索に行つた小林幸夫によつて発見されたことの諸点が認められる。
原判決は、右の外なお重要な証拠として、昭和二十七年七月一日附後藤澄吉の鎌田検事に対する供述調書と同日附、坂梨義丸の吉田裁判官に対する尋問調書とを採用している。澄吉の供述内容の詳細は原判決にも載つているから省略するが、前者の供述内容は、要するに「一月二十七日朝、私方附近を牛を盗られたと云つて多数の人が探していた。同日は旧正月の元日で私方には直、秀生の両兄の外に吉村、堀、吉野(註。順次被告人後藤守、阿部定光、藤井満の変名)と私の六名がいた。二十八日の朝私が誰かに起されて炊事場の横の茶の間に行つて見ると、前記の五名が動物の肉らしいもののスキ焼を副食物として食事をしていた。以下原判決の記載の通りで、供述内容は詳細を極めている。後者の供述内容は「昭和二十七年二月二十日頃後藤秀生が私方に来て、牛肉をやろうかと云つて新聞紙に包んだ二百匁程の肉を呉れたが、臭くて喰えないので、犬にやつた。四、五日後私が開墾に行くとき秀生に途中で逢つたら秀生から「この間やつた肉は、俺から貰つたと云うな」と口止されたと云うのであつて、両証言によると本件の牛が盗まれた一月二十八日朝には秀生方には、同人の外被告人の後藤守、安部定光、藤井満も集つていた。その朝から二月中頃まで秀生方では盛んに牛肉らしいものを喰つた。料理は主に吉野(藤井満)がした。のみならず、二月二十日頃には秀生は腐れかかつた牛肉二百匁程を坂梨義丸にやつていると云う事実が認められそうに思われる。
従つて、被告人等の共謀の内容や、犯罪の具体的な実行々為に付いての直接の証拠こそないが、以上の諸証拠を綜合すれば、原判決のように有罪の認定ができるようにも一応思われる。
しかし、第一盗難の発生した日の朝から消防団員等多数の人が、三日間に亘つて後藤方附近を主として県境(県外の捜査は警察に委せた)まで、隈なく捜査したのに何故何処からも犯行の証明に役立つものが発見できなかつたのだろうか。後に、牛の骨等の発堀された場所は、何処からでも行ける所であるし、生きたままの牛又は屠殺の死体を隠しそうな場所だと思われる後藤方別棟の納屋は原審の検証調書附属の写真によつても又当審の検証の結果によつても、事件当時から極めて粗末なもので、木の皮等で囲つてあるに過ぎないのであるから周囲から内部を覗いてみることも可能の筈である。又前顕松井正道の尋問調書によれば同人は「一月二十八日の朝から他の人々と共に牛の捜索に出掛けたが、当時秀生が農地問題で佐藤卓夫を攻撃していたので、秀生が疑しいと思つて同日の朝七時前頃煙草の火を借り傍々後藤方に様子を見に行つた。納屋の西側の小道を通つて母屋の南側に出て、玄関から入つたのだが、その際茶の間に秀生、藤井満と後藤守らしい人と外二、三名がいた。納屋の中は見ていないが一番南側に馬がいたのは見た、後はなにもわからなかつた。秀生方には牛の足跡はなかつた。納屋の前に足跡はなかつた。」と証言している。又同年二月上旬椎原某の後藤秀生の父彦馬に対する傷害事件のため、鎌田検事、大戸巡査等が秀生方を検証した際にも当時は既に、当局から牛窃盗の濃厚な嫌疑がかけられていたのであるから、窃盗の証拠の発見にも無関心ではなかつたと思われるに拘らず、秀生等の牛密殺に関する証拠は何も出て来た形跡がない。
第二、前顕点からは四肢の骨が発見されていない。後藤秀生が逮捕されて後、六月中旬頃、左角一本だけが秀生の旧住家の野天便所から発見された理由も十分には理解し得ない。
第三、被告人等又は被告人等以外にも共犯者があつてそれらの者が後藤方以外の場所で密殺したものと仮定しても、当時の厳重な捜査にも拘らず、その密殺場所は勿論、密殺を証明する何等の資料も判明しなかつたと云うのも不思議であるし、第一後藤秀生方以外で密殺されたとするならば、何故その後その骨等を後藤の地所に埋めたのか、むしろ、犯罪の証明を自から作るようなもので、この点も到底理解し難い。
第四、六月下旬、佐藤卓夫が後藤秀生の旧居の北側窓辺近くの草むらの中から、肋骨らしい骨一本を拾つたと云うのであるが、それを見ると肋骨にしては稍扁平の部が多く、且その一端の折れ口は甚だ不整で、本件の牛の骨であるかどうか、又どうしてそんなところに、あつたものかも全然不明である。従つて直ちに本件の証拠にはならない。
第五、後藤澄吉は後藤秀生の弟で、その証言の詳細を極めていること、前述の通りであるし、記録を調べてみても、鎌田検事の取調を受ける前に、この件について警察員等から取り調べられた形跡も少くとも記録上はない。また取調場所も年少の学生にとつては神聖であるべき筈の自校の校長室である。だから相当信用を置ける筈と思うのであるが、同証言の如く一月二十八日の朝食に後藤秀生方で被告人等が肉のスキ焼を喰い、仮にそれが本件の牛の肉だと仮定すれば、当時は秀生方を中心に多数の者が牛の捜索をしていた最中に該り、又その朝七時前に秀生方の茶の間の障子を開けたり、土間のかまどで煙草に火を点けたりした松井正道がなにも気付かなかつた筈がない。(原審検証調書記録四冊目二一三丁参照)尤も澄吉の云う一月二十七日と卓夫等の云う一月二十八日とは実は同日で後者の日の数え違いだとすれば(福岡管区気象台の電話回答参照、記録十六冊目六三一丁)この点の疑問は一応消えるがそれにしても澄吉が当時年齢十三歳の中学生であることを考えると詳細ではあつてもその供述に直ちに全幅の信頼が置けるか否か多少の疑問は残る。
第六、坂梨義丸の証言は、事前に何回も警察員から同一点に付いて取調べを受けているし、且相当期間勾留された後の証言ではあり、なお当時家には老人が一人残されていて証人も相当焦慮していた様子が窺えるし旁々右の証言に重大な意義を持たせるのは稍危険だと思われる。
第七、仮に後藤澄吉、坂梨義丸の証言が全幅的に信用できるとしても事件当時、被告後藤方に多量の牛肉があつたことを証明し得るだけで、これを以て直ちに被告人等が本件牛を窃取したものとは断定できない。
以上詳論したところで、既に明らかなように、原判決挙示の証拠だけでは証拠が不十分だと思われる。又記録を精査しても他に同判決を維持するに足る証左がない。
従つて本論旨は結局理由がある。
よつて刑事訴訟法第三百九十七条第一項により、原判決中被告人阿部定光、後藤守藤井満に関する部分を破棄し、なお同法第四百条但書に則り次の通り自判する。
本件公訴中、牛の窃盗の点(公訴事実は当初に記載した原判決認定事実に同じ)に付いては、被告人後藤秀生、阿部定光、後藤守、藤井満の四名共犯罪の証明がないので、同法第三百三十六条後段により、何れも無罪の言渡をすべきものとする。
第三、原判決第三の事実(被告人阿部定光に対する爆発物取締罰則違反の点)に付いて
弁護人等の事実誤認の論旨に付いて。
原判決第三の事実中「被告人阿部定光は、昭和二十七年三月十七日竹田市山手にある九州電力株式会社竹田第一発電所前の道路上において、雷管に導火線を装置した爆発物一個を自ら携帯して、所持していたものである」との点が果して同判決挙示の証拠によつて認め得るか否かの点に限り、先づ検討してみると、
同判決は右の事実を認定した証拠として、
一、判示の日時、場所で被告人を職務尋問したと云う警察官末永進、被告人が右職務尋問を受けた際、川に向つて投げた白い物を拾つたと云う警察官松野晋吉、職務尋問を受けている被告人を密かに撮影したと云う警察官鮫島正男の原審第二回公判における各供述。
二、被告人が白い物を投げ、警察官がそれを拾いに行くところを見たと云う清武ハル子の原審第三回公判における証言。
三、押検第二〇一号(併合前の原裁判所昭和二十七年(わ)第二一二号事件の押検第一号)の導火線付雷管一個、押検第二一二号(前同第二号)の紙片。
四、三の物件の遺留品領置調書(押検第二五一号及び同第二五七号)
五、(イ)前記鮫島が撮影したと云う写真五枚。(ロ)昭和二十七年六月九日附実況見分調書。
を掲げている。
末永の証言の内容は「昭和二十七年三月十七日午後四時頃、私外四名の警察官が発電所前で交通取締をしていたら、荷台にトランクを積んだ自転車を押して来る被告人に逢つた。(同年一、二月頃菅生村で他人からあれが阿部だと教えられて面識がある)発電所の門柱の内側で、トランクの内容や財布の中を調べているうち、被告人はあちこちポケツトに手を入れて、紙を捨てていたが、最後に一歩私を避けて丸めた紙片を右手で川に向つて投げたそれをそこにいた松野巡査が拾つて来たので見るとその紙片に導火線付雷管が包んであつた」と云うのであり、松野の証言は末永証言と殆んど同様である。又清武の証言は「当時は発電所門の竹田寄りの脇隣りに住んでいたが、昭和二十七年三月頃の昼頃、発電所の門のところで、警察官に調べられていた人が塵捨場の石のところ(註。前示実況見分書によれば、正門前で道を隔てた川縁り)に白いものを投げた。そしたら警察官がそれを拾いに行つた。私は丁度塵を捨てに行つて家に帰り、家の前に立ち止つたときに、それ等の行為を見たのである。白いものは、塵捨場の石のところに落ちた。」と云つているだけでその白いものの内容までは見ていない。鮫島の証言は単に将来何か役に立つこともあるかも知れぬと思つて、隠れて被告人が職務尋問を受けているところを写したと云うに過ぎないし、その時撮影したものだと云う前示五枚の写真の中には、被告人が物を投げるところは勿論、紙に包まれた雷管を写したものも含まれていない。
又前記末永の証言によれば、被告人は竹田署に連行され簡単な取り調べを受け二十分位で釈放されたようだが、発電所正門のところでも竹田署でも雷管は被告人に示されていないようである。又鮫島が被告人に隠れてまで撮影しながら何故現場で雷管の写真を撮らなかつたのか、これ等の点にも多少の疑問が残る。
かかる事情の下において紙片や雷管そのものが存在するからと云つて、その他には警察官の証言と同人作成の遺留品領置調書と云うが如き、謂わば一方的証拠とも云い得べきものの外、適確な証拠もないのに敢えて有罪の判決をするのは稍危険であると思われる。
従つて論旨は結局理由がある。
よつて、刑事訴訟法第四百条但書により次の通り自判する。
本件公訴中、被告人阿部定光は治安を妨げ且人の身体財産を害せんとする目的を以て、昭和二十七年三月十七日頃午後四時過頃、大分県直入郡竹田町山手第一発電所前道路上において雷管に導火線を装填せる爆発物一個を所持していたとの点は、犯罪の証明がないので刑事訴訟法第三百三十六条後段により無罪の言渡をすべきものとする。
第四、原判決第二の(二)の事実(被告人後藤守に対する爆発物取締罰則違反の点)に付いて。
事案は、被告人後藤守が本件牛窃盗の嫌疑により、昭和二十七年六月二日午前二時過、大分県直入郡柏原村大字叶野字竹ノ迫、津高光夫所有の杉林内で逮捕され(控押検第四十八号ノ一の逮捕状及び同号ノ二の通常逮捕手続書参照)引続き、身柄拘束中、同月十日午後巡査部長神野忠純は久保軍治外二名の警察官を伴つて被告人が日頃余り寄り付かない同県大分郡大南町大字上判田五千二百四十六番地の実父後藤又六方に至り、前記窃盗事件の捜索差押許可状を示して家宅捜索をなし同家八畳の座敷の床の間の通称出越の窓と称する当時被告人の本類を並べてあつた棚の隅から、煙草「新生」の空箱(十本入のもの)に納めてある導火線付雷管一個を発見したと云うのである。
原判決は、右捜索に従事した前記神野、久保両警察官及び立会人後藤又六(一部)の各証言と、同年旧正月四日頃、被告人が煙草「光」の空箱に導火線付雷管五本を納れて持つているのを見た旨の供述記載のある裁判官吉田誠吾作成に係る証人河野伝の尋問調書並に導火線付雷管一個(併合前の大分地方裁判所昭和二十七年(わ)第二一一号事件の押検第一号)を主たる証拠として、右雷管が前記の場所に蔵置されていた事実を肯定し、有罪の認定をしている。
これに対し、弁護人等の論旨は、神野、久保の両証言は右捜索に終始立会つた後藤又六の証言と著しく相違していて信用できない。河野伝は精神耗弱者であるからその証言は措信できない。本件は警察によつて仕組まれた陰謀である。原判決には、事実誤認の違法があると云うのである。
よつて先づ、久保の証言から検討して行くと、同人は捜索の経過に付いて次のように述べている「捜索は午後五時半頃から約一時間位を要した。四名の警察官が二組に分れて捜索した。私は安藤巡査と組んだ。八畳の座敷しか捜索していない。私が棚の隅から導火線付雷管入りの新生の空箱を発見したのは捜索の終り頃で、時刻は午後六時半頃であつた。当時神野巡査部長、猪原巡査の組も同じ部屋の床の方を探していた。私は新生の空箱に入れてある雷管を発見して、神野部長に報告しその場で当時その座敷の私の近くに立会つていた後藤又六にも知らせた。その瞬間又六は「ダイナマイトだ、私は鉄道に勤めていたことがあるので、危いことは知つている」と云つた。間もなく台所で押収の書類を作成して引上げた。又六の家には、南側に二部屋、北側に二部屋あつて、雷管を発見したのは北側の東に面した仏檀のある座敷である。」と云うのである。
神野は次のように証言している。「捜索に行つたのは、判然しないが、午後五時頃と思う。初め又六に被告人が居室として使用している部屋を聞いて、座敷八畳の間を捜索した。雷管を発見したのは判つきり憶えないが又六の家に行つてから十分か二十分経てからではないかと思う。その座敷の書院の上の棚に雑誌や本が置いてあつたが、その奥の方から煙草の空箱に入れた爆発物を発見した。第一発見者である久保が空箱を開けたのだが、その時私も見たら箱の中に爆発物が入つていた。発見してすぐ久保巡査から押収物件を又六に教えようか、どうしようかと相談があつた。又六にはその場で示した。間もなく自動車で帰つた。途中で屋外に出て自動車のところに行つたことはない。他の三名もなかつたと思う。」と云うのである。これに対して後藤又六は久保から煙草の空箱入雷管を示されたこと自体は認めているのであるが、その経過に付いては次の通り証言している。即ち、「捜索の始まつたのは午後三時頃で、終つたのは午後六時頃である。座敷の捜索が始まつて一時間位でノートが出た。その場にいた私に見せて、これを持つて行くぞ、と云うので承知した。それから床の横の出越の棚を探し並べてあつた本を全部下に卸ろして見て又元のように並べ今度は台所を二、三十分位捜し、その後寝室や戸棚等を開けて探した。それから再び座敷に戻つて来て、出越の棚の本を全部また卸ろして調べていたが、また元通りになおした。それが一時間位かかつたが、そのうち六時頃になつたので、台所に行き電灯を点け、久保巡査が飯台の上で、ノートを持つて行く書類を書いた。その時外に待つていた新聞記者が「帰らんか」と呼んだので、四人の巡査の中の一人が、外に出て新聞記者と一緒に何か話しながら十四、五間離れている自動車を置いてあるところまで行つて間もなく帰つてきて台所には上らず唯腰かけていた。それから約十分位して久保巡査が私に「おいさんにこれがあつたところを知らせて置こう」と云うので、私が「何があつたろうかなあ」と云つたら「こんなものが探していたらあつたと云つて雷管を見せた。久保が何処に持つていたか知らないが、すぐ取り出した。そして私を座敷に連れて行つて此処にあつたと云つて、出越の棚を教えて呉れた。私は座敷を捜索するときも、他の部屋を探すときも立会い、始終捜索する現場を見ていた」と云うのである。
この三つの証言は夫々喰違つているが、それにも拘らず又六が始めから終りまで捜索に立会つて見ていたと云う点については一致している。前二者は雷管は座敷の出越しの棚の隅から探し出したもので、その時その場に立会つていた又六に示したと云つているのに対し、又六はその場で示されたことを強く否定し、捜索が全部終了し、台所の飯台の上でさきに座敷で押収したノートの押収調書の作成も終つた引揚間際に前記のような不自然な状態の下に突然雷管を示されたことを強調している。又捜索に要した時間、捜索した場所の数、座敷の捜索の回数、本の棚卸の回数にも相違がある。
次に久保、神野の両証言間の矛盾を指摘してみると、雷管の発見場所その場で又六に示したことなどの点に付いてこそ一致しているが、次の重要な点で相違している。即ち久保の証言によれば捜索は午後五時半頃から始まり、約一時間を要したが、その終頃の六時半頃出越の棚の隅から新生の空箱入り雷管を発見したと云うのに対し、神野証言では判然しないが捜索は午後五時頃から始まつた。捜索が始まつて十分か二十分経つた頃久保が出越の棚の隅から煙草の空箱入りの爆発物を発見したとなつていて、発見の時期が捜索の最初と最後と云う本質的の相違がある。又久保の証言によれば、神野に発見の報告をした上直ちに身近にいた又六に示したとなつているのに対し、神野の証言では発見後久保から又六に教えようか、どうしようかとの相談を受けたことになつている。両名の証言によると四名の警察官は二名宛二組にわかれこそすれ、最初から終りまで八畳の座敷の捜索だけしかしていないと云うに拘らず両証言の間にどうしてこんな相違が生ずるのか不可思議である。
これに反し又六の捜索の経過に関する証言は詳細である許りでなく矛盾なくまた自然に受け取れる。
又前掲河野伝の供述記載は原判決が認定した爆発物所持とは直接関係ある事柄でないのみならず、併合前の原審第二回公判における同人の供述記載(二冊目一〇七丁以下)その他にかんがみ直ちに信用はできない。
検察官は最後の弁論の際、本件捜索の翌十一日久保巡査と鑑識課の邦賀技官とが捜索現場の撮影に赴いた際、又六が座敷の出越の棚の前に雷管の入つていた煙草の箱を持つて撮影されている位だから又六の証言は信用できないと云つていたが、この場合田舎者の又六としては警察官の申出をむげに断り切れなかつたのではないかとの推測も成立するし、第一逆にどうして普通にはやらないこの様な撮影方法をこの場合したのだろうか。第二に捜索の翌日特に又六をその傍らに立させて現場の撮影をする程慎重を期しながら、何故当時直ちに空箱、雷管等に付いて指紋を採取しなかつたのか、むしろ理解に苦しむところである。
これを要するに、原判決に挙示してある証拠だけでは有罪の認定をするに足らないと思われるし、又記録を精査しても、他に同判決を維持するに足る証左はない。従つて論旨は結局理由がある。
よつて刑事訴訟法第四百条但書に則り、次の通り自判する。
本件公訴中、被告人後藤守は治安を妨げ且つ人の身体、財産を害せんとする目的を以て、昭和二十七年三月上旬頃より、同年六月十日頃までの間大分郡判田村大字上判田五千二百四十六番地の自宅仏間出越の棚に雷管に導火線を装填せる爆発物一個を隠匿所持していたものであるとの点は、その証明がないので、刑事訴訟法第三百三十六条後段より、無罪の言渡をすべきものとする。
乙の部
第一、被告人後藤秀生に対する爆発物取締罰則違反、脅迫(原判決第一、第五事実)被告事件に付いて。
被告人に対する原判決は、既に前記の通り、破棄されたのであるから、本被告事件に関する控訴の趣意に付いて、一々論述する法律上の必要はないのであるが、念のため検討して行く。(以下他の被告人に関しても同様。)
(一)爆発物取締罰則違反被告事件に付いて。
論旨は、事実誤認を主張するに帰するのであるが、その論拠は、概略(1)原判決の証拠となつた菅忠愛、村田克己の供述調書、尋問調書の任意性並びに信用性に疑がある。(2)第一の(一)の爆発物の入手先が不明である。(3)同(二)の爆発物を村田から受取つた者が被告人であると言う明確な証拠がない。(4)菅忠愛方における爆発物の押収は立会人なくして行われた疑があり、押収品と称する物件は警察官によつて外部から持ち込まれた疑がある。(5)同(三)の爆発物の菅忠愛に対する保管依頼者は、戸高公徳であつて、被告人ではない、との五点に要約できる。
先づ(1)の点から検討してみると、
検第九十七号の裁判官吉田誠吾の菅忠愛に対する尋問は、同尋問調書によれば事件後間もない昭和二十七年六月十七日に行われたもので、その供述内容は(イ)「後藤、坂本から爆発物を預つたことが二度ある。最初は昭和二十七年四月二十六日頃の午後九時頃で、私方表玄関の六畳の応接間で預つた。その時の事情は、両名が一寸来て呉れと言うので、応接間に行くと、風呂敷包から出していた品物を示して、これは重要な品物だから保管して置いて呉れと言うので、私がそれはなんだと訊すと、黙つているし、なお頼むと言うので、仕方なく、後藤から受取つて、二階の私の部屋にある蚕棚の下の行李の上に置いた。その時預つたのは二個で、二つとも新聞紙包みであつたが、一つは書類ようのもの、一つはなにか爆発物らしいものであつた。それを預る時、これは湿つてはいけない。箱かなにかに保管して置てい呉れと言われたので二、三日後、私が木製の箱を作つてその中に入れ、行李の中の蚊帳の下に匿して置いた。手触りや木の箱に詰めるとき上から押したらローソクのような感じがしたので、大体爆発物ではないかと感じた。第二回目は同年六月一日午後九時頃で、私方で後藤から預つた。後藤、坂本が三日間泊つた時である。その時、私は預らないと言つたのだが、後藤が、まあいいぢやないか、と押し付けるので、仕方なく預つた。品物は二個で二つ共新聞紙に包んであつた。一個は爆発物らしいもので、他の一個は書類のようなものであつた。その外に、雷管が十個、新聞紙に包んであつて、これは包紙から見えており、バラバラになつていた。預けてから、両名とも、何処かへ出て行つた。二回目に預つた爆発物は、蚕棚の下から二段目の棚に置いた。雷管は鑵詰の空鑵に入れて、私の部屋の隣りにある物置部屋の天井にしてある竹のミスの上に置いた。新聞包の大きさは、雷管を包んだものを除いて四個共、横十糎、縦十五糎、厚さ五、六糎位であつた。預つた品物は全部警察官から押収された。
(ロ)四月に一回目に預つた翌日の二十七日頃の午後、私方の六畳の応接間で、後藤がダイナマイト瓶を作つたことがある。その日午前、後藤が私にサイダー瓶かビール瓶を呉れないかと言うので、探して置こうと答えて置いたが、正午頃また探して呉れと言うので、炊事場の横の土間の棚から、ソース瓶一本見付け出し、後藤に渡した。後藤が更に、砂を両手に二杯とつて来て呉れと言うので、表の溝から両手に二杯の砂をとつてきてやつた。すると、後藤はその瓶に砂を八分目に詰めて、ダイナマイトを中に入れ、導火線をつないだ雷管を後から瓶の中に入れて作つた。その時、後藤は私に、これが導火線であるとか、雷管であるとか説明した。ダイナマイトや雷管は何処から入手したのか知らないが、出来上つたダイナマイト瓶の保管を頼まれたので、私の室の机の横にある母の箪笥の上に置いた。
(ハ)五月五日頃の夜、私の家で、後藤、市木、工藤祐次、私の四名がいるとき、後藤が「菅生村に中核自衛隊を作ろう」と言うので、その内容を聞くと、後藤は、そのグループは四、五名で構成され、他のグループとはなんの関係も持たず、ただ上からの命令で、警察や進駐軍を襲撃して、破壊活動をやることが目的であると言い、また、自衛隊の武器はなにかと聞くと、鍬、鎌、鳶、竹棒でやるんだと言つた。ダイナマイトを使うと言つた。後藤の作つたダイナマイト瓶は、自衛隊の話のあつた晩に、後藤が返して呉れと言うので、私はその瓶を持つて来て後藤に渡した」と言うのである。又検察官に対する供述調書は、それより以前の同年同月四日以降十数回に亘る供述を録取したもので、供述内容は、更に、詳細を極めている。そして両種調書を通じ供述の経過は極めて自然に受け取れるしまた、右の各取り調べに無理のなかつたことは、その後同証人が原審公判で取り調べられた際にも、述べているし、当公判廷で取り調べられたときにも、大体認めている。従つて以上の各調書の供述記載には信頼が置けると信ずる。当審における菅忠愛の証言中、前示各調書の供述記載と相反する部分は遽かに信用し難い。
村田克己の供述調書の供述記載に付いても、その任意性及び信用性を疑うに足る資料はない。
(2)原判決第一の(一)の爆発物の入手先が不明なこと所論の通りではあるが、だからと言つて所持罪が成立しないと言う理論は成立しない。
(3)昭和二十七年六月十四日附、副検事山野内隆雄作成の村田克己の供述調書(検第三一九号)同年同月十八日附、検事藪下時晴作成に係る村田克己の供述調書を対照すれば、原判決第一の(二)の五月八日頃村田克己からダイナマイト十五本位、雷管十二個位、長さ約五米の導火線一本を譲り受けた黒田と言う男が、被告人後藤秀生と同一人であることを認定するに十分である。
(4)昭和二十七年六月十二日附、検事広石正雄作成に係る菅忠愛の供述調書(検三一二号記録六冊目二五四丁以下)には、菅忠愛の供述として「一、二回共、新聞紙を自分では開けなかつたので果して、なにが入つているかは確かめなかつたので、大体を察していた訳だが、警察官が来て私の前で、新聞包等を開けられたとき、私は立会つていたので、第一回の包の中にダイナマイトが十本位、雷管が十五本位、導火線一巻あり、第二回目の新聞紙包にはダイナマイトが十本位入つていたことが判つた。その他に第二回目にはバラの雷管十本位を預つた」旨の記載があり、なお爆発物を保管していた場所を図示している。これによつてみると、菅家の押収には家人を立会わせず、又押収物件は警察官が外部から持ち込んで来たものだとの疑いはない。右に反する菅忠愛の当審における証言は信用できない。
(5)裁判官吉田誠吾作成に係る菅忠愛の前示尋問調書、昭和二十七年六月十一日附、検事藪下時晴作成に係る村田克己の供述記載の一部と、当審証人村田克己、戸高公徳の各証言の一部とによると、戸高は被告人の使者として、同年五月下旬大分郡判田村の柴尾諫作方で村田克己からダイナマイト、雷管、導火線を譲り受け、その頃菅忠愛方でこれを被告人後藤秀生に手渡し、後藤は同年六月一日夜、菅家を立ち去るに際り、菅忠愛に寄託するまで自己においてこれを所持していたものと認められる。右に反する菅忠愛の当審の供述もまた信用できない。
従つて、論旨は理由がない。
なお所持の目的が治安を妨げ、又は人の身体、財産を害しようとするにあつたことは裁判官吉田誠吾に対する菅忠愛の前示供述記載(ロ)(ハ)、及び当審証人鳴川七郎の供述の一部に照らして認められる。
(ニ)脅迫被告事件に付いて。
論旨は、被告人後藤秀生、藤井満の言葉の中に、判示のような言葉があつたとしても、真実危害を加える積りの発言とは受け取れない。又河野正文が後藤等の言葉を聞いて生命、身体の危険を感じたとも思われない。本件に付いては、その後円満に解決していると言うのである。
原判決に挙示している証拠によつて、同判決第五に記載の通りの客観的事実のあつたことを明認し得るし、又被害者河野は恐ろしかつたと述べている。しかし、仮に、論旨の通り、被告人等に加害の意思がなく、河野が被告人等の言葉により、畏怖の念を起さなかつたとしても、凡そ脅迫罪は人の生命、身体、自由、名誉、財産の何れかの法益に対し、危害が加えられるであろうことを不法に通告すること自体によつて、既に成立し、通告者に真実加害の意思があつたか否か、被通告者が畏怖の念を起したか否かの如きは、犯罪の成立に少しの影響をも与えるものではないと解すべきであるし、又仮に、事後に和解が成立したとしても、犯罪の成立を妨げるものでないこと勿論であるからして、論旨は理由がない。
よつて刑事訴訟法第四百条但書を適用し、次の通り、自判する。
当裁判所は、原判決中第一事実の証拠の標目の部に列記の証拠の外、当審証人戸高公徳、同村田克己、鳴川七郎の各供述の一部により、後記第一の事実を、原判決第五事実の証拠の標目の部に記載の証拠により、同第二の事実を認定する。
被告人後藤秀生は
第一、治安を妨げ、又は人の身体、財産を害しようという目的を以て、
(一)昭和二十七年四月下旬頃、大分県直入郡菅生村(現在竹田市)大字菅生字菅生八百十五番地の菅忠愛方において、同人に対し、爆発物であるダイナマイト十本(押検第二号中)、雷管十八個(うち一個導火線付―押検第三号)及び爆発物の爆発を惹起すべき装置に使用する器具である、長さ約五米の導火線一本(押検第一号中)の保管を依頼し、同人をして同年六月二日まで同家二階に保管せしめて、これを所持し、
(二)同年五月八日頃、当時の同県大分郡判田村(現在大南町)大字下判田千三百三十九番地の柴尾諫作方において、ダイナマイト十五本位、雷管十二個位及び長さ約五米の導火線一本等の爆発物並びに前同様の器具を譲り受けてこれを所持し、
(三)同年五月下旬頃、戸高公徳を通じて、前記村田克己から少くともダイナマイト十四本(押検第二号中)、雷管十個(押検第三号の二)及び導火線九米三十糎(押検第一号)を譲り受け、同年六月一日前顕菅忠愛に保管を委託するまで、自己において、これを所持していたものである。
第二、被告人藤井満等と共謀の上、昭和二十七年一月一日の夜前記菅生村大字小塚字平井の河野正文方において、同人に対し、「出て来い、出て来んと叩き殺すぞ」等口々に申向けて、同人の生命、身体に危害を加うべきことを告知して、同人を脅迫したものである。
法律に照らすと判示第一の(一)乃至(三)の所為は各爆発物取締罰則第三条に、同第二の所為は刑法第六十条、第二百二十二条第一項罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第一号に、夫々該当するところ、右は刑法第四十五条前段の併合罪であるから、所定刑中何れも懲役刑を選択し、同法第四十七条本文並に但書第十条に従つて、法定の加重をした刑期範囲内において、被告人を懲役三年に処し、同法第二十一条に則り原審の未決勾留日数中主文掲記の日数を右本刑に算入する。(なお刑事訴訟法第百八十一条第一項但書適用)
第二、被告人藤井満に対する脅迫(原判決第五事実)及び傷害(同第四事実)被告事件に付いて。
論旨は、何れも事実誤認をその理由とするものであるが、その内容は、脅迫の点に付いては、被告人後藤秀生に対するものと全く同様であり、傷害の点に付いては、事件当夜は星ばかりで、月のない暗夜であつたから、被告人と面識のない被害者藤原及び同伴者二子石の、その後数日を経て藤井を見た時の顔、体格、声色等からする加害者は藤井だとの直感を内容とする供述の不正確であること勿論であり、これを証拠として有罪の判決をした原判決には事実誤認の違法があると言うに尽きる。
しかし、論旨に言う藤原の供述は「十二月二十八日晩は、平井部落の河野益三方で煙草の総会があり、それに出席して午後六時頃終つたので、県道を通つて二子石と一緒に帰宅の途中、その晩、月はなく、星明り程度であつたが、田代部落から東約三丁の桜の馬場と言うところを私は道の右側を、二子石は自転車を押しながら私の左側を歩いていると、後から二人の男が来て、私の前に立ち塞がり、被告藤井(註、後で藤井と知つた意味と解する)が懐中電灯を照らしつけて「藤原と言うのはお前か」と二、三言云つたが、黙つていた。しかし、更に、追及するので、「そうだ」と答えたところ、「藤原なら用事があるから待て」と言うので「何故待てと言うのか」と問うたら「胸にあろうが」と言つた。私が「ない」と答えて帰ろうとすると、私の首巻を掴えて引き摺つて、道の左側に連れて行き、引き倒して手拳で左頬を叩いた。二子石が自転車を立てかけて直ぐ止めてくれたので、起き上つて逃げかけたところ、今度はもう一人の男が来て、私を突き倒し、棒で左腕を叩いた。それではつと思つて後は夢中でわからなくなり、二子石がまた止めてくれたので、立ち上つて逃げ帰つた。その晩の藤井(註。前同)の服装は無帽で、服は上、下共霜降りのような作業衣であつた。下駄ではなかつた。事件後四、五日過ぎた日に、被告人が新聞かビラを持つて私方に来たとき、殴つたのは、被告人だと言うことがわかり、名前を調べたら藤井だと言うことがわかつた」と言うのであり、
二子石の供述は『十二月二十八日夜、藤原と共に県道を桜の馬場まで来たとき、二人の男が私達に追い付いてきて、私達より先廻りして、懐中電灯を藤原に突き付け、「藤原じやろう、俺の顔に見憶えがあろう、一寸待て、話がある。」と言つた、そして二、三問答の末、大きな方の男が暴力的に藤原の胸を掴んで引張つていつて、殴つた。私は、その男を後から止めたので、藤原が逃げると、もう一人の小さい方の男が、藤原を追かけて叩くので、自分は又止めようと追つて行くと、その男が棒で藤原を叩くので、取り上げてみたら鳶口であつた。それから又大きい方の男が藤原を叩き、それを止めると、小さい方がまた叩くと言う風であつたが、そのうち、藤原は、やつと逃げて帰つた。そのことがあつた二、三日後、この人(被告人藤井を指す)がビラを田代部落に配つて歩いていたので、その時の声や、背の高さや、顔の恰好から、確かに藤原を殴つた人だと思つた』。と言うのである。
右両名の証言によれば、当夜は月こそなかつたが、晴天、星明りがあり、また、原判決でも、採用している原審の検証調書、特に、添付写真第十葉によれば、犯行現場は広濶平坦、附近に目をさえぎるもののないよく見通しの利くところであることが明らかである。被害者は最初加害者と相対峙して、押問答をしているし、又当時既に服装まで確認している又二子石は数度、暴行を阻止している。だから相当暗い晩ではあつたとしても、その間、藤原、二子石の脳裡に加害者の人相、体格、声色等が自然に焼きつくことは想像できる。しかも、両名が被告人藤井に逢つたのは、その二、三日後のことではあり、当時の加害者の一人が藤井であると断定できたとしても少しも不思議ではない。しかも、被害者の藤井と、その同伴者であつた二子石とが、全く同一条件の下において、同一確信に至つている事実に徴すると、両名の認識には誤りがないと断定できる。従つて、右両証言に基いて、有罪の認定をした原判決には、所論のような事実誤認の違法はない。
又脅迫の点に関する論旨の謂れのないことは前段被告人後藤秀生の同罪に付いて説明した通りである。
よつて刑事訴訟法第四百条但書に則り、次の通り自判する。
当裁判所は原判決に第四(傷害)第五(脅迫)の事実に対する証拠として挙示してあるところと同一の証拠により、同判決第四、五に記載通りの事実を認定する。
法律に照らすと、被告人の所為のうち、傷害の点は、刑法第二百四条、第二百七条、罰金等臨時措置法第二条、第三条第一項第一号に、脅迫の点は刑法第六十条、第二百二十二条第一項罰金等臨時措置法第二条第一項第三条第一項第一号に各該当するが、右は同法第四十五条前段の併合罪であるから、所定刑中何れも懲役刑を撰択の上、同法第四十七条本文並に但書、第十条に従い、法定の加重をした刑期範囲内で、被告人を懲役六月に処し、なお被告人の年齢の点にかんがみ、同法第二十五条第一項を適用し、本判決確定の日から二年間右刑の執行を猶予すべきものとする(なお刑事訴訟法第百八十一条第一項但書適用)。
第三、原判決第二ノ(二)の事実(被告人後藤守に対する銃砲刀剣類等所持取締令違反の点)に付いて。
論旨は(1)本件の匕首は刃渡一五糎ではなく、十四、九糎である。(2)自己防衛のため所持していたものであつて、不法目的の所持ではない。従つて、原判決には事実誤認の違法があると言うのである。
よつて按んずるに、原判決が証拠として採用した鑑定人野上量平の鑑定の結果によれば、本件匕首の刃渡りが十五糎あること明である。尤も右鑑定は公判廷で行われたものであるが、凡そ刃渡りとは芒子から棟区までの直線距離を言うのであるが、普通はの上端と棟区とは一致しているところから、最初、同鑑定人は刀身からを外さずして、芒子からの上端までの距離を測定し、十四糎九と答えたが、その直後を外して、芒子から棟区まで正確に測定したところ、十五糎あつたので、前言を取り消し、刃渡り十五糎と答えていること同人の供述記載(原審併合前の本件第二回公判調書、記録第二冊目一八九丁乃至一九一丁参照)によつて、洵に明白である。論旨(1)は取消前の鑑定を根拠とするもので謂れがない。そうだとすれば、本件の匕首が昭和二十八年法律第一四五号による改正前の銃砲刀剣類等所持取締令第一条の刀剣類に該ること勿論である。また同令第二条によれば、同第一条の刀剣類の所持が許されるのは同第二条但書に該当する場合に限ること明白であり、又護身用のための所持の如きは右但書に該当しないこともまた明らかであるからして、論旨の(2)も理由がない。従つて原判決に事実誤認の違法はない。
よつて刑事訴訟法第四百条但書に従い、次の通り自判する。
当裁判所は、原判決が同判決第二の(二)に対する証拠として掲げた証拠と同一の証拠により、同判決第二の(二)と同一の事実を認定する。
法律に照らすと被告人の所為は、昭和二十八年法律第一四五号による改正前の銃砲刀剣類等所持取締令第一条、第二条本文、第二十六条第一号、罰金等臨時措置法第二条第一項に該当するので、所定刑中罰金刑を撰択し、その金額の範囲内で、被告人を罰金三千円に処し、なお、右罰金が完納できない場合には、刑法第十八条に従い、金二百円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置し、なお、同法第二十一条を適用し、原審の銃砲刀剣類等所持取締令違反被告事件の勾留状による未決勾留日数中十二日を一日金二百五十円の割合を以て右本刑に算入すべきものとする。(なお刑事訴訟法第百八十一条第一項但書適用。)
以上説明して来た通りの理由により、各被告人に対し、主文通りの言渡をする。
(裁判官 青木亮忠 裁判官 尾崎力男 裁判長裁判官柳田躬則は定年退官につき署名押印することができない。裁判官 青木亮忠)